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原爆投下を事前に知っていた日本人がいた

原爆投下を事前に知っていた日本人がいた

https://ameblo.jp/sannriku/entry-11870097238.htmlより

2014-06-04 09:31:00

テーマ:『赤い盾』/『日本のいちばん醜い日』

 鬼塚英昭さん以外に、原爆が”招致”されたものではないかという

指摘をしている方がいることをおしえていただきました。

ソアリング さん

「国民を見殺しにした帝国陸海軍の犯罪」 を転載↓

2014-05-05 20:55:08

終戦の時に、市ヶ谷の参謀本部では書類が燃やされ続けた。

参謀本部だけではない。

戦地の司令部や日本各地の軍施設で

ポツダム宣言受諾から連合軍の日本上陸までの間に

おびただしい量の文書が焼却された。

アメリカに情報が渡るのを恐れただけではなく

国民に知られるとまずい情報もたくさんあったに違いない。

『原爆投下は予告されていた』 古川愛哲

この本には、原爆投下に関して

軍や官僚はかなりの情報を持っていたばかりではなく

原爆投下を了承していた者たちもいた

という疑惑が、実証をあげて書かれている。

近年のNHKスペシャルで

原爆を投下したテニアン島のB29の部隊の存在を

無線の傍受などから日本軍はつかんでいたらしい

という内容のドキュメント番組があった。

当初、数が少ないこの部隊の目的はわからなかったが

広島に原爆投下され、部隊の関与が明らかになった。

にもかかわらず、3日後、長崎にむかう同部隊のB29にたいして迎撃命令を出さなかった。

番組では、これを日本の軍組織の硬直した官僚機構の弊害がもたらした

大失態みたいに扱っていたが、どうやらそんなことではないらしい。

じつは広島に向かうB29も軍は察知しており、呉では海軍の最新型高角砲(高射砲)が

エノラ・ゲイに照準をあわせていた。最大射程は18000メートル。エノラゲイは3機の編成で

高度8000メートルを飛行。しかし、ここでも攻撃命令は出されなかった。

日本軍は無線の傍受、海外ラジオ放送の傍受などから

かなりの情報を得ていたが、国民には一切伝えなかった。

国民は短波放送で海外放送を聞くことはできたが

当時、短波放送の受信機は国内に500台くらいしかなく

その受信も禁じられていた。

アメリカは中波でも対日宣伝放送をしていた。

何も知らされない日本の国民に戦況などを直接伝えようというものだ。

しかし空襲警報を聞くためラジオのダイヤルは日本放送協会に

固定しておくのがほとんどで、

おまけに日本放送協会は雑音をだしてアメリカの放送を聞こえなくする

妨害もしていたらしい。

さらに、昭和20年には

「敵はサイパンに放送局を作って、日本語で一般国民に呼びかけている・・・

このデマ放送に対抗する最高の方策は聞かないことである。

もし、この放送を聴取する者がいれば誰であれ尋問される」

こういう脅しが日本放送協会のラジオから流された。

このデマ放送とされた『ボイス・オブ・アメリカ』は

ニュースや空襲の予告をしてたが、8月1日、次のような放送を数回繰り返した。

「8月5日に、特殊爆弾で広島を攻撃するから、非戦闘員は広島から逃げなさい」

広島逓信局の無線技士はこれを聞いて上司に報告するが、

敵性放送を聞くとはなにごとだ、デマをもらしてはいけんから、おまえは家に帰さん!

と一蹴されてしまう。

こうした情報を広島の陸軍は知っていた。

「米軍の情報によると、明日6日、広島に新型爆弾を投下するから

非戦闘員は今夜から郊外に避難せよと通告している・・・それを知らせてあげようと思って」

陸軍通信隊の兵士からそういわれた当時の少年の証言もある。

当時、広島逓信病院の院長だった蜂谷道彦氏の『ヒロシマ日記』には

「軍隊は用意周到だ」 

「将校の家族はほとんどすべて郊外の安全そうなところへ疎開していた」 

とある。

また、米軍はB-29を使って空から対日宣伝のビラも撒いた。

戦争末期には、空襲の予告、日本の実情の暴露、降伏勧告などが

ビラに書かれていたが、市民は拾ったビラの内容を見ることは許されず

内容を見ず、すぐに警察に届けなければ犯罪に問われた。

広島の原爆投下の前にもビラは撒かれ、それを拾って密かに読んだ人もいた。

そのため、7月末頃から「8月5日に広島を大空襲する」との噂があったのだという。

広島への原爆投下の予告はグリニッジ標準時で8月5日になっていたのが多かったらしい。

ところで

『原爆投下は予告されていた!』 

という同じ題名の本がもう1冊ある。

黒木雄司という元陸軍伍長が書いたもので、昭和20年、この人は中国の広東

航空情報連隊の本部情報室というところいた。

ここで、3月から8月まで『ニューデイリー放送』という日本語放送を傍受していたが

その放送に、次のようなものがあったという。

「6月1日、スチムソン委員会は、全会一致で日本への原子爆弾投下を大統領に(略)

勧告書を提出しました」

「7月15日、アメリカでの原子爆弾第一号爆発実験の成功」

そして8月3日には、広島への原爆投下を予告・・・

「信ずべき情報によりますと米軍は来る8月6日、原子爆弾投下第一号として

広島を計画した模様です。原子爆弾とは原子核が破裂するものであって

核の破裂にともない高熱を発し、すべてのものは焼き払われることでしょう。

繰り返し申しあげます・・・・」

これを朝から夜まで三回繰り返したという。

ちなみに、ポツダム会談時に、チャーチルはトルーマンに

「日本には三回警告してから原子爆弾を投下すること」と言ったという。

実は原爆製造と投下は米英共同作戦でもあった。

さらに8月7日には長崎への予告・・・

「信ずべき情報によれば米軍は来る8月9日に、広島につづいて長崎に

原子爆弾を投下する予定であることを発表しております・・・」

ところで、この黒木雄司氏の本は歴史家からほとんど無視され

トンデモ本扱いされている。

その最大の原因は、この長崎への投下予告にある。

一般に知られている事実としては、8月9日の第一目標は小倉で当日の天候による視界不良から第二候補の長崎に投下されたとされている。

それならば長崎への予告はおかしいということになる。

8月9日の朝、小倉上空は、曇っていたが

じつは雲ではなく、前日の八幡空襲の焼跡の煙が視界を遮っていた。

そう書かれているものもある。

ところが、それも事実ではないらしい。

小倉造兵廠一帯の広大な区域、その地表近くを濃い霧と煙りが覆っていた。

それは人工的に発生させた煙幕であった。(『横から見た原爆投下作戦』 秋吉美也子)

煙幕の発煙装置はドラム缶にコールタールと薪を使ったもので燃やすと黒い煙がでた。

「八幡製鉄や三菱化成は、煙幕による遮蔽装置をもち・・」との警察の記録もある。

それに加え八幡製鉄所からは溶鉱炉にアンスラチン煙幕を焚いて、送風機で煙突から

噴き出すことができた。

それと共に、96式という発煙筒も使われたと考えられる。

放送があったという、8月7日。

じつは小倉に5000名のアメリカ兵捕虜が集められていた。

攻撃目標からはずさせるためである。

いったいどういうことか。

そもそも古川愛哲氏がこの本を書くにいたったのは

あるアメリカのドキュメンタリー映画を見たのがきっかけだった。

それは、原爆投下の8月9日の夜

長崎にいた捕虜たちを救助するためにアメリカの空母が港に入り

上陸作戦が行われたという驚くべき内容のもので

長崎に上陸したアメリカ兵のひとり、デュウェイン・ウィリアムズの回想を

彼の息子が記録したドキュメンタリーであった。

小倉に捕虜が集められたが、長崎にも捕虜はいた。

長崎はアメリカ兵ではなくイギリス兵やオランダ兵の捕虜だった。

原爆投下は、じつはアメリカ単独ではなくもともとイギリスで

始まった共同計画であり、この捕虜救助はチャーチルの要請に

よるものだったかもしれないという。

こっそりアメリカ空母が港に入ってくるというだけでも

信じがたいのに、さらに港に入って来る際に妙なことがある。

「日本側のパイロット船の案内で、濃い霧の中、漂う機雷を慎重に避けて

われわれは狭い水路のような長崎港を・・・・」

というウィリアムズの証言があるのだ。

巡洋艦と駆逐艦を随伴する米空母を

日本の船がエスコートして長崎港に入ったのだというが

機雷敷設位置を示す海軍の「機密海図」なくしては港には入れない。

つまり米空母をエスコートしたのは日本海軍だというのだ。

結論を言うと、この時期海軍はすでに終戦工作に入っていた。

広島、長崎への原爆投下も織り込み済みだったと考えれば

原爆投下のB29が、迎撃も高射砲の攻撃も一切受けなかったことも説明がつく。

海軍大臣の米内光正は、ひそかに終戦工作をすすめていた。

ポツダム会談の7月24日時点で、8月5日に爆弾が投下され15日には日本は降伏

するだろうとチャーチルが語ったといわれるが、そのスケジュールを日本側では

米内海相以下が受け入れ

「広島と長崎の原爆投下の日付を、OWI(戦時情報局)のボイス・オブ・アメリカが

アメリカの標準時の日付で放送する。 日本海軍は原爆投下の妨害をしない」

このような取引があったのではないかと、これが著者の推測である。

OWIの対日宣伝放送で、ザカライアス大佐の放送というのが昭和20年5月に始まった。

ザカライアス大佐は、グルー駐日大使の下で米軍情報将校として長く日本にいた人で

米内光正をはじめ内閣の海軍主要メンバーとかなり親しい関係にあった。

ザカライアス大佐の無条件降伏を勧める短波放送に対し、アメリカ西海岸では

東京からの特殊な周波数の電波による次のようなメッセージを受信している。

「日本は平和条件を討議する用意がある。しかし、その無条件降伏方式に

何らかの変更があるというならば、である」 

同盟通信海外局次長兼外信部部長の井上勇による通信であった。

井上は1ヵ月以上、11回は秘密の周波数でやり取りをしていたようだ。

小倉が第一目標からはずされたことに関して。

8月7日に、小倉に捕虜が集められたという情報は

米内海相の代理人を通じて短波放送で伝えられた可能性が高い。

「憲兵隊が小倉に米軍捕虜を集めた、小倉には煙幕を張る」

小倉は攻撃を試みるだけで、長崎に落とす。

8月9日の原爆投下に向かったB-29では

スウィニー機長だけはこの秘密のシナリオを知っていたが

爆撃手は何も知らずに小倉上空で

「目標が見えません! 見えません!」と連呼したわけだ。

二度にわたる原爆投下。

それは、都合のよい言葉で日本側が申し出た

シナリオでもあるのではないか。

著者の古川氏はそんな疑惑さえ抱いている。