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原爆地上起爆説につながる証言や写真が日の目を見ないのはなぜか?

福田元昭の「桜の木になろう」

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527.原爆地上起爆説につながる証言や写真が日の目を見ないのはなぜか?

02  2016 07:19

↑2016 ジューンブライド・ウェディングドレス1 松井玲奈

(1)「人影の石」

↑画像 広島平和記念資料館 「人影の石」と呼ばれてきた展示

 2000年3月22日、原爆の熱線でできたとされ広島市の原爆資料館に展示されている「人影の石」の影の部分は、付着物によって黒くなっていることが、奈良国立文化財研究所埋蔵文化財センターの調査により判明しました。

http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20080829094441394_ja

 この石は、爆心地から約260m離れた住友銀行広島支店の入口の階段の一部です。建物は戦後も、一時期使用されていましたが、1971年の建て替えの際に、この部分が切り取られ、広島平和記念資料館に移設されました。影の形や位置から「原爆投下説」の根拠ともなってきました。ですが、2000年の奈良国立文化財研究所埋蔵文化財センターの調査により、その根拠は揺らぐ事になりました。付着物とは、そこにいた人が融けた跡と言う事である。

(2)広島貯金支局

http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?insight=2013121914360393_ja

 広島貯金支局は、爆心地から約1・6キロの広島市千田町(現中区)にありました。鉄筋地上4階、地下1階建て。1937年に完成しました。

 広島原爆戦災誌によると、原爆で窓ガラスや書棚、机、椅子などが吹き飛ばされ、多くの人が死傷しました。エレベーターは壊れ、みんなが慌てて下りた階段の手すりや壁は血で真っ赤になったそうです。

 業務を引き継いだ旧中国郵政局が被爆50年の時にまとめた資料によると、福屋百貨店(現中区)にあった分室も含め、死者90人の名前が確認できます。

 被爆直後、地下室は避難場所になりました。避難してきた女性が、助産師の助けで無事に赤ちゃんを出産しました。この逸話を伝え聞いた広島市出身の詩人栗原貞子さん(1913~2005年)が、原爆詩「生ましめんかな」を創作しました。

↑画像 被災した広島貯金支局 撮影:川本俊雄氏 1945年10月

http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?insight=2013121914360393_ja

↑画像 被災した広島貯金支局内部 爆心地から約1.600m 1945.10.4撮影

http://iepcollege.org/news/%E5%8E%9F%E7%88%86%E6%8A%95%E4%B8%8B%E3%81%A8%E7%88%86%E5%BF%83%E5%9C%B0

 熱線によってできたこのような複数の影を延長することにょって、爆心地(空中の爆発地点)を特定することができたとされている。「原爆投下説」の根拠となっている。

http://iepcollege.org/news/%E5%8E%9F%E7%88%86%E6%8A%95%E4%B8%8B%E3%81%A8%E7%88%86%E5%BF%83%E5%9C%B0

(3)もしかしたら、下の写真は真実ではない可能性があるのではないか?

 2枚の写真を見て、疑問に感じるのです。私の目の錯覚かもしれませんが、上の写真は窓ガラスが付いていないように見えるのですが、下の内部の写真は窓ガラスが付いてます。

 上の写真はリンク先の記事の写真をクリックして頂くと、左上に(2)に掲載した写真が小さく出ています。その写真をクリックすると写真が拡大され、「川本俊雄氏撮影」という文字が出てきます。一方、下の写真の出典であるリンク先をクリックして写真の周囲を見ても、誰が撮影したか判りません。

 私の目の錯覚でなければ、上の写真は窓ガラスが入っていない。ところが、下の写真は窓ガラスが入っている。上も下も1945年10月撮影とされているので、どちらかは真実の写真ではない事になる。

 上の写真は撮影者名も明記されているし、何より、周囲の風景が写っているので、上の写真が正しいと推測できる。

 つまり、下の写真は真実ではない可能性がある。真実ではないとしたら、(2)に記した「原爆投下説」の根拠は、音を立てて崩れる!

(4)「私、空中から爆弾を落としたとは思ってないんですよ。下から爆発」元第343海軍航空隊 少尉 本田稔氏の証言!

https://youtu.be/o1dKP3cv9zw

↑動画 「私、空中から爆弾を落としたとは思ってないんですよ。下から爆発」元第343海軍航空隊 少尉 本田稔氏の証言! 【戦士の証言】元第343海軍航空隊 少尉 本田稔氏に聞く Part3[桜2010/8/13]

https://www.youtube.com/watch?v=07eSQ82V15U&list=PLBF239C1C967DFAD8&index=2

↑動画 【証言シリーズ】元第343海軍航空隊 少尉 本田稔氏に聞く 後編[桜2010/8/5] 15分くらいから原爆証言

http://cosmic-dance.blogspot.jp/2016/03/blog-post_62.html

 <転載開始:すべて原文のまま>幾多の実際の戦闘で、爆弾や爆発状況を見ていた軍事的に専門的知識のある彼が広島原爆の爆発の瞬間に広島城上空を紫電改で単独飛行しており目撃体験、その生々しい証言では「私は空中から爆弾落としたとは思ってないんですよ。下から爆発、何で何が爆発したと思って上を気をつけてませんから全然知りませんねB29に対しては・・・」の一言。

 

 彼がウソの証言をしているとは思えません。この発言後の日本の戦争への取り組み方への疑問も、彼の軍人としてのまじめさ、冷静な判断の持ち主であったことが伺えます。

 2つのユーチューブの証言、どちらもインタビュアーがB29からの投下についてとあえてB29を絡めて聞いているのですが、彼は完全にB29については存在をスルーしています。戦闘機乗りならまずは上空をチェックしたり爆撃機を探すはずです。

 つまりは、彼が目視できる範囲に爆撃機は見当たらなかったということでしょうね。爆発前にも、もしB29が上空にいて投下したとしたら飛行気乗りとして目の前の状況を捉えるはずです。

 この大和のことも含めて、戦後の敗戦処理のために、とにかく本来の家族を守ろう、故郷を国家を守ろうとしていたクソまじめな優秀な軍人たち(陸軍、海軍それぞれに)を一同に集め一瞬で大量抹殺する。

 

 それがずる賢い敵国とも手を結んだ支配者層の考えていたことでしょう。だからそれまでも日本の軍人の多くが派遣された現地で戦闘することもなく本国からの援助も薄く餓死や病気で殺されていた。

 

 戦争の本質目的は、支配者層を将来脅かすことになるであろう目覚めた軍人たちと、同じ国民でも違う民族たちの浄化殺人であると思います。敵国との戦という茶番を使ってごまかして。

 この証言ビデオ、地上起爆に疑問のある方に見ていただきたいです。何しろ戦闘のプロの見識ですから。<転載終了>

(5)戦艦大和の原爆実験

http://cosmic-dance.blogspot.jp/2016/03/blog-post_62.html

 <転載開始>4年前、内部告発者ジム・ストーンによってフクイチは核爆弾の材料であるプルトニウム製造工場であったことが暴露された。

https://www.youtube.com/watch?v=kMh-Gto3TVY&feature=youtu.be

 これであの時の3号機の爆発が仕掛けられた核爆発だったことを多くの人が知るようになった。それ以来、日本の原発の多くがプルトニウムの製造工場であり、電力供給プラントはカモフラージュであったことが徐々に知らされるようになった。

 

製造されたプルトニウムの多くは米軍基地に運ばれて小型中性子爆弾になって中東で炸裂していったに違いない。

 

 この点を私は監督の鎌仲ひとみさんに会った際聞こうかと思っていた。だが、その矢先彼女が他の質問者からそれとなく米国との関与について質問を受けた際、動揺を隠せないどころか、異様にその点については触れてもらっては困るような、ある種のアレルギー反応を示していたのを私は覚えている。私はこの時、彼女は知っている、だが口止めされていると悟った。あそこまで取材し調査しながら知らないはずはないからである。

 戦後の原爆製造は日米が協同で進めていったに違いない。そう言えるのは、原爆特許の根幹部分を天皇財閥が握っている、このことが昨年明るみになってきたからである。

 

 昨年私は戦前における日本の原爆開発について調査していた。ドイツで原爆を開発し、ペーパークリップ作戦で技術情報・技術者がアメリカにわたり製造され日本で落とされる、このパターンがあまりにもできすぎているのが気になっていた。特にNHKが取り上げた時点でおかしい。もっともイルミナティーの要員が自ら打ち明けた話など、何かを隠ぺいする目的に思えて仕方がなかった。

 ところで、このところとツイッターからの情報で、どうやら同じようなパターンが脳裏をよぎってしまう1枚の写真に目が釘づけになった。戦艦大和の沈没直前の大爆発である。

 

 日本の原爆開発は岩手以外に今の北朝鮮南部で極秘に開発され終戦間際に最初の核実験が行われたという。

 

 一方、アメリカはマンハッタン計画で資金も人材も材料も豊富だったから技術的にうんと進んでいた。このことは綿密な文献調査で鬼塚英昭が嫌というほど書いている。ただ、あまりにも内容がくどいのが気になっていた。ただ、視点を「我々平民が思考する戦争」においていたらいつまでたっても支配者のマインドコントロールには振り回される。

 

 要するに私が言わんとすることは、これはほとんどの人には受け入れがたいことであるが、あの戦争は日米共同で演じた一大イベントで、ヒロヒトもヒトラーもこのイベント劇の役者であったことだ。それに連合国・枢軸国といった対立構造も戦争劇のシナリオライターが描く典型的なパターンである。

 

だからこの視点から考察すると、以下のことが浮かび上がってくる。

 日米がもっとも隠してきたかった事は負ける役を演じることになった日本が自ら原爆をしかけ、あたかも仮想敵国から落とされたかのごとく装うことである。このことは、ヒロヒトどころかほとんどの大将が米国側に、しかも開戦当初から寝返っており、負けいくさを演じていたことからも導かれる。勝ち負けのいくさ劇でマインドコントロールを受けていたのは大将以下下級軍人と平民だったのである。

 

 もし、あなたがこの話を空想に思えるのであったなら、あなたはいまだに彼らが作ったからくりにはまりそのトリックに引っかかったままであり、戦前からのマインドコントロールを引きずっていると言えよう。

 

 さて、今回問題とする大和沈没直前の爆発だが、この写真を見ていて私の内部でくすぶっていたことがだんだんと晴れてきたようだ。以下は、私の直感から導かれることでもある。

 

 結論から言えば、大和自体が実は建造当初から原爆製造工場だったということである。当初から非常に極秘に建造が進められ、戦後になってようやくその存在が知らされるようになった大和。その中では人形峠から発掘された精製ウランが濃縮されて幾つもの原爆が製造されていたに違いない。その内の二つが広島そして長崎に持って行かれた。起爆は地上にて行い、米軍とあらかじめ綿密に組んだイベントが行われた。

 

 終戦直後に残っていた原爆は北海道美幌の今の自衛隊駐屯地の地下基地にある。当の大和は建造当初から、原爆製造の秘密が明かされてしまうのを隠すため自爆する設計が施され、そのような計画の下、建造後は活躍の場を与えず、終戦近くなって御用済みとされた。

 爆煙をよく見てほしい、沈むなら何十発も受けた砲弾で沈没するところ、胴体を真っ二つにしたほどの爆破。これなら砲撃を受けていなくても沈む。備蓄していた弾薬が炸裂したとしても、このように一度にしかも6000メートルまで噴煙が上がるものだろうか。「マッチ箱一つで戦艦を爆撃できる」爆弾を最初に実験に使ったのは大和においてであろう。

 

この威力を見届けた日米上層部はこの劇の最大のイベントである広島・長崎が成功裏に収まることを確信したに違いない。<転載終了>

(6)原爆 地上起爆を証明する写真集! 広島編

↑画像 広島原爆は、ウラン原爆である。下の写真から地上で爆発していることがわかる。広島原爆とその爆心地

http://ri4jp.web.fc2.com/page39.html

画像 もし、本当に高度600メートルで原爆が爆発したというのならば、放射線による影はもっと下の方についていなければならないのです。

http://ameblo.jp/jam512412/entry-12165305366.html

↑画像 地上起爆の証拠写真 1945年8月6日 午前8時8分頃 地上での火炎がはっきりと見られる 広島市段原中町電気商松重三男氏撮影でUN発表の写真 「514.アメリカが1954年3月1日に、史上最大の15メガトンの水爆実験を強行したのはなぜか?」より再掲。514はこちら。

 この写真を広島新聞はあたかも空中炸裂したかのように火炎を修正した。ここを指摘すると、「原爆投下説派」は、なかなか反論できない!

 

↑画像 左:松重三男氏撮影でUN発表の写真 右:広島新聞の偽造写真

http://ameblo.jp/64152966/entry-12159461316.html

(7)原爆 地上起爆を証明する写真集! 長崎編

↑画像 地上起爆の証拠写真 1945年8月9日 長崎

http://blog.goo.ne.jp/netken2013/e/a5aca6b939afa8f8e4c789792fa02398

↑画像 地上起爆された長崎の原爆の写真 The moment of detonation at Nagasaki August 9, 1945.

http://ameblo.jp/64152966/entry-12159461316.html

「524.なぜ「枚方市平和の日」は3月1日なのか?」より再掲。524はこちら。

(8)wantonのブログより一部転載

http://ameblo.jp/64152966/entry-12166332293.html

 <転載開始>エノラ・ゲイ号の航路が、各地の空襲警報により、その全容がほぼ明らかになった。広島で原爆が爆発したのは、8時6分。の時に、エノラ・ゲイ号は呉あたりを飛んでいた。何故、8時15分投下でなければならなかったのか?

 

広島観測所が午前8時14分にB29確認と記録されているからだ。

 1945年7月16日、米国ニューメキシコ州で行なわれた人類最初の核実験とされるトリニティ実験がアラモゴードで行われた。ところが、当時のマンハッタン計画では、原爆の製造に失敗している。濃縮ウランが出来ていなかったからだ。これで、どうやって広島に原爆が投下出来るの!?

 この広島・長崎原爆実験の大いなる闇は、日本建国史上における最大の謎であり巨悪犯罪に間違いありません。どんな悪魔でも裸足で逃げ出すほどのおぞましいホロコーストです。にも関わらず、国民の何と反応の鈍い事でありましょうか!? 日本人は最も大切な心の何かを失ってしまったようだ。

 この日の飛行をエノラ・ゲイのシルバープレート部隊では、「ピクニック仕事」と呼んでいた事は確かである。シルバープレート部隊の1人「クロード・ロバート・イーザリー機長」は、広島への原爆投下を懺悔して、統合失調症?になったと云う説があるが、これは真逆で、「広島上空へは、空気を運んだだけのピクニック仕事だったよ」と酒の席で発言していたから、米国空軍側から排斥されて精神障害者として社会的に抹殺された訳である。― 中略 ―

 <「原爆は本当に、8時15分に落ちたのか」:中条一雄著:三五館発行>から、186ページ“いま一人は私の中学、高校で二年先輩の水田泰次さんだ。2000年8月発行の同人誌中で、やはり「広島に原爆が落とされることがわかっていた」と、次のように書いている。

証言1:当時、小生は京大工学部冶金教室の学生でした。原爆が投下される三ヵ月前の一九四五年五月のある日、冶金教室の主任教授の西村英雄先生に突然呼び出されました。先生によると、アメリカの学会から秘密裡にニュースが先生に送られてきて、当時の原爆製作を競争していた日本より先にアメリカで成功したというのです。そして、その第一回現地テストを広島で行う予定が決まった。できるだけ早く両親を疎開させなさいということでした。

 

 水田さんは西村教授の忠告にしたがって、両親をすぐに広島近郊の廿日市に疎開させた。おかげで両親は原爆の被害にあわなくてすんだ。この西村教授の忠告は、今や想像もできないくらい奇想天外ともいえる秘密情報だが、水田さんはこう言う。

証言2:西村先生に呼び出された時、先生の横に原子物語の湯川秀樹教授が座っておられた。それで、てっきり湯川教授からの秘密情報かと思っていたが、どうやらそうではないらしい。西村先生がアメリカとの独自のルートを持っておられたようだ。独自のルートで考えられるのでは『もはや高地なし』の一節だ。

 原爆投下の約半年前の一九四五年初めごろから、一部の米国学者の間から、「原爆使用反対」の声が出て、その中心になったのがシカゴ大学の冶金研究所だった。

・・・ここで、証言2で、「湯川秀樹」がその場所に居たと云うのは、話の内容に信憑性を持たせるのに、十分な効果がでている。「湯川秀樹」は日本製原爆製造の象徴だから、この「秘密情報」を大本営(天皇)に進言すれば、大本営参謀本部は「国民に避難勧告」を出来た筈である。それをしないで、一部の優秀な学生を、静岡や京都に避難させていた事は、湯川秀樹始め、日本の科学者は、一人の例外も無く「極刑」に値する。

 更に、大本営参謀本部は、逆に「国民を広島と長崎に集合させて、広島原爆使用の前日にラジオ放送(NHK)田中館愛橘が、原爆の講演演説をしているのは何故?」5月に分っていたのなら、「避難」させるべきだ。そこが、若木敏夫が爆心地で感じた「広島は実験場」だった、という実感である。― 中略 ―

 私が「8時15分」にこだわって考えるようになったのは、2冊の本をほぼ同時期に読んだからである。その一つは中条一雄の『原爆は本当に8時15分に落ちたのか』(2001年)である。もう1冊は、諏訪澄の『広島原爆 8時15分投下の意味』(2003年)であった。この2冊を読み、「8時15分」という時間の持つ意味を考え続けた私は一つの結論に達した。「広島原爆は完全に仕組まれていた!」

 それでは、中条一雄の『原爆は本当に8時15分に落ちたのか』を読んでみよう。中条一雄は1926年生まれ、小中高と広島で育ち、19歳のとき被爆した。大学卒業後、朝日新聞の記者(スポーツ担当)となった。・・・「おい、おい、山本君、本当かね。もし8時6分だとしたらたいへんな歴史的な新事実だぞ!」そんな声につられて、山本郁郎君が話しはじめた。

 広島一中から広島高等工業(現広島大工学部)へ進学した彼は、あの日、爆心から南方に約2キロ離れた平屋の校舎の研究室で被爆した。クラスの友達たちは岡山の軍需工場に動員されていたが、学業の成績がよかった彼は旧帝大への進学クラスに入り、担当教授から研究テーマを与えられて広島に残っていた。

 一瞬のうちに大破した校舎の下敷きになり、血まみれになりながら、必死の思いで木材の間からはい出して防空壕に転がり込んだ。そのとき時計を見たら、たしかに「8時6分だった」と、次のように話してくれた。

 「ぼくが持っていた時計はロンジンだった。なぜそんな高価な時計を持っていたかというと、動員で岡山に行った同級生から『軍需工場に行くと米軍の目標にされて、爆死するかもしれない。大切なものだから預かっておいてくれ』と頼まれたものだった。彼の父親は住友銀行のニューヨーク支店に長く勤め、開戦後に日米交換船で帰国した人だが、ロンジンはその父親からもらっだものだった。彼は広島のほうが安全だと思っていたらしい。ぼくが時計マニアだと知って預けたらしいが、貴重な預かり物だからこれだけはどうあっても守らなければならないと、宝物のように大切に扱っていた。

 そのころNHKは時報の前に、たしかモーツァルトのドイツ舞曲第五番を流していた。ぼくはそのメロディーを聞いて必ず時報に合わせるのを習慣としていた。前夜もいつものように最後の時報に合わせた。絶対正確だったという自信がある。大破した校舎からはい出した時、自分の時計なら見向きもしなかったかもしれないが、友達の高価なものだから壊れていないかと心配で反射的に時計を見だ。8時6分を鮮明に覚えている。絶対に間違いない」 山本郁郎君は2度も3度も「8時6分」を繰り返した。<転載終了>

(9)原爆地上起爆説につながる証言や写真が日の目を見ないのはなぜか?

 (5)で登場したジム・ストーンは、「262.福島原発を爆破させたのは誰か?」と「466.日航ジャンボ123便が撃墜された後、生き残った多数の生存者の救助を遅らせ、生存者虐殺を招いた人物は誰か?」などで紹介した。262はこちら。466はこちら。

 (5)に書いてある通り、広島と長崎の原爆の地上起爆は、日本の支配層が米軍とあらかじめ綿密に組んだイベントだった。だから、原爆地上起爆説につながる証言や写真が日の目を見ないのは当然である!

この広島・長崎原爆実験の大いなる闇は、日本建国史上における最大の謎であり巨悪犯罪に間違いありません。どんな悪魔でも裸足で逃げ出すほどのおぞましいホロコーストです。にも関わらず、国民の何と反応の鈍い事でありましょうか!? 日本人は最も大切な心の何かを失ってしまったようだ。

唐人、朝鮮人たちは大和魂の純日本人を恐れ、日本を統治する手段として、骨のある真実のある日本人を抹殺し、その後洗脳教育制度をつくり、日本人を洗脳した。その結果が選挙にいかない、コロナ毒薬ワクチンを何も考えずにうつ奴隷民族を作り上げたのだ。