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【総集編】奈良県の天皇陵

 2019/03/30  2023/02/09

 総集編

総集編の過去の記事はこちら

・総集編 ~過去の記事一覧~

奈良県内にある30の天皇陵をご紹介します。

第1代・神武(じんむ)天皇

陵墓名称:畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)

遺跡名:ミサンザイ

所在地:橿原市大久保町

初代天皇。天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと・天照大神の孫)のひ孫にあたります。

彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の第四子。

母は玉依姫(たまよりびめ)。在位前の名は狭野尊(さののみこと)、あるいは

神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと・磐余彦尊)。

日向国(ひむかのくに・今の宮崎県)で誕生し、兄や子を集めて東方の大和国(今の奈良県)を

目指ざすことになります(神武東征)。

途中、河内国(かわちのくに・今の大阪府東部)から生駒山を超えて大和国へ入ろうとしたところ、

長髄彦(ながすねひこ)との戦いで兄・五瀬命(いつせのみこと)が流れ矢に当たり負傷。

神の子孫である自分たちが東(太陽)に向かって戦うことは、天の意思に逆らうこと

(先祖の天照大神は太陽神であるため)だと悟り、海路で南へ向かい、

熊野(今の紀伊半島南部)に上陸。東へ迂回して太陽を背にして戦うことにしました。

しかし、磐余彦尊(神武天皇)は山道で迷ってしまいます。

そこへ天照大神が夢に現れ、八咫烏(やたがらす・3本足のカラス)を送って案内させました。

ちなみに八咫烏はサッカー日本代表のシンボルマークにもなっています。

磐余彦尊はついに長髄彦との決戦を迎えますが、なかなか勝てません。

すると金鵄(きんし・金色のトビ)が磐余彦尊の弓の先に止まると、

長髄彦の軍はまぶしくて目を開けられずに降参します。

そして、磐余彦尊が大和国を平定すると、畝傍山(うねびやま)の東南(今の橿原神宮)に

宮殿をつくりました(橿原宮)。

初代天皇として即位した日が、現在の暦では2月11月であるため、

この日は「建国記念の日」となっています。

一般的に神武天皇が即位したのは紀元前660年で、崩御したのが127歳と伝えられており、

あまりにも長寿なので実在しなかったのではとも考えられています。

しかし、古代日本では1年に2回年齢を増やす「春秋2倍暦」が適用されていたという

可能性があるため、年齢だけを根拠に存在を否定することはできないです。

第2代・綏靖(すいぜい)天皇

陵墓名称:桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)

遺跡名:塚山

所在地:橿原市四条町

神武天皇の第三皇子。父帝・神武天皇が崩御した後、

第一皇子・手研耳命(たぎしみみのみこと・異母兄)が、

弟である神八井耳命(かんやいみみのみこと)と

神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと・後の綏靖天皇)に反逆。

反逆者の手研耳命を討った神渟名川耳尊が皇位につき、

都を葛城高丘宮(かづらきのたかおかのみや・今の奈良県御所市森脇)に移しました。

日本書紀・古事記(記紀)に事績の記載が極めて少ない「欠史八代」のひとり。

第3代・安寧(あんねい)天皇

陵墓名称:畝傍山西南御陰井上陵(うねびやまのひつじさるのみほどのいのえのみささぎ)

所在地:橿原市吉田町

綏靖天皇の皇子。記紀には兄弟の記載が無いので、詳細は不明。「欠史八代」のひとり。

即位後、片塩浮孔宮(かたしおのうきあなのみや・今の奈良県大和高田市片塩町、

または奈良県橿原市四条町)に都を移します。

母は事代主神の娘・五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)。

鴨王(かものきみ・事代主神の孫)の娘・渟名底仲媛(ぬなそこなかつひめ)を皇后としました。

第4代・懿徳(いとく)天皇

陵墓名称:畝傍山南繊沙渓上陵(うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ)

所在地:橿原市西池尻町

安寧天皇の第二皇子。「欠史八代」のひとり。

即位後は軽曲峡宮(かるのまがりおのみや・今の奈良県橿原市白橿町周辺)に

都を移します。

皇后は天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)で、懿徳天皇の姪(めい)にあたります。

第5代・孝昭(こうしょう)天皇

陵墓名称:掖上博多山上陵(わきのかみのはかたのやまのえのみささぎ)

所在地:御所市三室

懿徳天皇の皇子。「欠史八代」のひとり。

即位後は掖上池心宮(わきがみのいけごころのみや・今の奈良県御所市池之内周辺)に

都を移します。

第6代・孝安(こうあん)天皇

陵墓名称:玉手丘上陵(たまてのおかのえのみささぎ)

所在地:御所市玉手

孝昭天皇の第二皇子。「欠史八代」のひとり。

即位後は室秋津島宮(むろのあきつしまのみや・今の奈良県御所市室周辺)に都を移します。

皇后は天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)の娘で、孝安天皇の姪にあたります。

第7代・孝霊(こうれい)天皇

陵墓名称:片丘馬坂陵(かたおかのうまさかのみささぎ)

所在地:北葛城郡王寺町本町3丁目

孝安天皇の皇子。「欠史八代」のひとり。

即位後は黒田廬戸宮(くろだのいおどのみや・今の奈良県磯城郡田原本町黒田周辺)に

都を移します。子女は、後継の孝元天皇(こうげんてんのう)の他、

邪馬台国の卑弥呼だったという説が有力な倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)、

桃太郎伝説の起源とされる吉備津彦命(きびつひこのみこと)・稚武彦命(わかたけひこのみこと)

などがいます。

第8代・孝元(こうげん)天皇

陵墓名称:剣池嶋上陵(つるぎのいけのしまのえのみささぎ)

遺跡名:中山塚1-3号墳

所在地:橿原市石川町

孝霊天皇の皇子。「欠史八代」のひとり。

軽境原宮(かるのさかいはらのみや・奈良県橿原市大軽町・見瀬町周辺)に都を移します。

第9代・開化(かいか)天皇

陵墓名称:春日率川坂上陵(かすがのいざかわのさかのえのみささぎ)

遺跡名:念仏寺山古墳

所在地:奈良市油阪町

孝元天皇の第二皇子。「欠史八代」のひとり。都はこれまで置かれた宮と離れた、

奈良盆地北の春日率川宮(かすがのいざかわのみや・今の奈良市本子守町)に都を移します。

皇后は先代・孝元天皇の妃だった伊香色謎命(いかがしこめのみこと)。

第10代・崇神(すじん)天皇

陵墓名称:山辺道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)

遺跡名:行燈山古墳

所在地:天理市柳本町

開化天皇の第二皇子。母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)で後の物部(もののべ)氏の

系譜に連なり、実在したのは3世紀後半ごろと考えられています。

即位後は都を三輪山西麓の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや・今の奈良県桜井市金屋)に移し、

万世一系(永久に一つの系統が続くこと)の詔を発しました。

第11代・垂仁(すいにん)天皇

陵墓名称:菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)

遺跡名:宝来山古墳

所在地:奈良市尼辻西町

崇神天皇の第3皇子。

纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや・今の奈良県桜井市穴師周辺)に都を移しました。

垂仁天皇にまつわるエピソードは多く、一つは殉死の禁令です。

これまで、皇族が亡くなると葬儀で近習の者たちを集めて殉死させるという風習がありましたが、

垂仁天皇はこれを禁止。代わりに埴輪(はにわ)を埋納させることにしました。

これが埴輪の起源とされています。

即位7年には、当麻村(たいまむら)の強者・当麻蹴速(たいまのけはや)と、

出雲国の野見宿禰(のみのすくね)に力比べをさせました。結果は野見宿禰の勝利。

これが日本初の天覧相撲と言われています。

晩年は、田道間守(たじまもり)を常世国(とこよのくに・海の彼方にあるとされる異世界)へ

遣わして非時香菓(ときじくのかくのみ)を探させます。

非時香菓は、今の橘(たちばな)と推測されており、当時は不老不死の実であると

考えられていたそうです。

困難を乗り越えやっとの思いで、非時香菓を手に入れた田道間守でしたが、

大和国に戻ると時すでに遅し。天皇は既に亡くなっていました。

悲観した田道間守は、陵のそばで自害したそうです。

御陵のそばにある小さな島は、田道間守の墓と伝えられています。

第12代・景行(けいこう)天皇

陵墓名称:山辺道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)

遺跡名:渋谷向山古墳

所在地:天理市渋谷町

垂仁天皇の第三皇子で、4世紀前半に在位したと推定されています。

子女には後継の成務天皇(せいむてんのう)の他、

日本古代史上の伝説的英雄・日本武尊(やまとたけるのみこと)がいます。

宮は纒向日代宮(まきむくのひしろのみや・今の奈良県桜井市穴師)。

第13代・成務(せいむ)天皇

陵墓名称:狭城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)

遺跡名:佐紀石塚山古墳

所在地:奈良市山陵町

景行天皇の第四皇子。

後に兄・日本武尊(やまとたけるのみこと)の子・足仲彦尊(後の仲哀天皇)を

皇太子に立てました。

宮は志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや、今の滋賀県大津市穴太)。

奈良県外にある天皇陵(古墳時代)

下記の天皇の陵は奈良県外にあります。

【大阪府】

・第14代 仲哀(ちゅうあい)天皇 ⇒皇后は三韓征伐などの伝説がある神功(じんぐう)皇后。

・第15代 応神(おうじん)天皇

・第16代 仁徳(にんとく)天皇 ⇒天皇陵は国内最大の古墳であり、世界三大墳墓。

・第17代 履中(りちゅう)天皇 ⇒「倭の五王」の讃(さん)に比定。

・第18代 反正(はんせい)天皇 ⇒「倭の五王」の珍(ちん)に比定。

・第19代 允恭(いんぎょう)天皇 ⇒「倭の五王」の済(せい)に比定。

・第21代 雄略(ゆうりゃく)天皇 ⇒ヤマト王権を飛躍的に拡大。「倭の五王」の武(ぶ)に比定。

・第22代 清寧(せいねい)天皇

・第24代 仁賢(にんけん)天皇

・第26代 継体(けいたい)天皇

・第27代 安閑(あんかん)天皇

・第30代 敏達(びだつ)天皇 ⇒世界最古の企業・金剛組が発足したのはこの頃(578年)。

・第31代 用明(ようめい)天皇 ⇒聖徳太子の父。

第20代・安康(あんこう)天皇

陵墓名称:菅原伏見西陵(すがわらのふしみのにしのみささぎ)

所在地:奈良市宝来4丁目

第19代・允恭天皇の第二皇子。5世紀半ばに在位した推定されています。

中国の「宋書」・「梁書」に記される「倭の五王」の興(こう)に比定されています。

都は石上穴穂宮(いそのかみのあなほのみや。今の奈良県天理市田町または田部)。

第23代・顕宗(けんぞう)天皇

陵墓名称:傍丘磐坏丘南陵(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ)

所在地:香芝市北今市

市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ・履中天皇の長子)の第三子。

都は近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや。今の奈良県高市郡明日香村八釣、

または大阪府羽曳野市飛鳥)。

第25代・武烈(ぶれつ)天皇

陵墓名称:傍丘磐坏丘北陵(かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎ)

所在地:香芝市今泉

仁賢天皇の皇子。母は雄略天皇の皇女・春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)。

都は泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや・今の奈良県桜井市出雲)。

暴虐の大君だったことで知られ、妊婦の腹を裂いて赤子を見る、人の生爪を剥いで芋を掘らせる、

人を木に登らせ弓で射落とす、

女を裸にして馬と交接させ、陰部が潤っている者は殺し、

濡れていない者は没して官婢(女奴隷)としたなどのエピソードが日本書紀に記されています。

第28代・宣化(せんか)天皇

陵墓名称:身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのえのみささぎ)

遺跡名:鳥屋ミサンザイ古墳

所在地:橿原市鳥屋町

第28代天皇。古墳時代の536年~539年に在位していたと考えられています。

第26代・継体天皇の第二子で、第27代・安閑天皇の同母弟。

異母弟に後の第29代・欽明天皇(きんめいてんのう)がいます。

都は檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりののみや、今の奈良県高市郡明日香村檜前)。

即位元年に蘇我稲目(そが の いなめ)が大臣(おおおみ・天皇の補佐)となり、

子の馬子(うまこ)以降続く蘇我氏の全盛の礎が築かれるのが、この時代からです。

第29代・欽明(きんめい)天皇

陵墓名称:桧隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)

遺跡名:平田梅山古墳

所在地:高市郡明日香村平田

第29代天皇。古墳時代の539~571年に在位していたと考えられています。

第26代・継体天皇の嫡男で、母は手白香皇女(たしらかのひめみこ、第24代・仁賢天皇の皇女)。

物部尾輿(おこし)を大連(おおむらじ・天皇の補佐)、蘇我稲目を大臣にしたことにより、

物部氏と蘇我氏の二極体制ができあがりました。

都は磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや、今の奈良県桜井市金屋・外山)。

欽明天皇在位中の552年に、百済(くだら)から仏像と経文が伝来します。

これがきっかけで廃仏派の物部氏と、崇仏派の蘇我氏の対立がおこり、

物部氏は寺を焼いたり、仏像を投げ捨てたりしたことにより

物部氏と蘇我氏の間の確執が始まります。

また562年、朝鮮半島では任那(みまな・にんな)が新羅(しらぎ)に滅ぼされます。

第32代・崇峻(すしゅん)天皇

陵墓名称:倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)

所在地:桜井市倉橋

第32代天皇。古墳時代の587年~592年に在位。第29代・欽明天皇の第12皇子。

母は蘇我稲目の娘・小姉君(おあねのきみ)で、第30代・敏達天皇(びたつてんのう)、

第31代・用明天皇(ようめいてんのう・聖徳太子の父)、

第33代・推古天皇(すいこてんのう)の異母弟にあたります。

都は倉梯柴垣宮(くらはししばがきのみや・今の奈良県桜井市倉橋)。

崇峻天皇は大臣・蘇我馬子によって推薦され即位。

一方、大連・物部守屋は、同母兄の穴穂部皇子(あなほべのみこ)を推薦しますが、

穴穂部皇子は馬子によって殺害されてしまいます。

これにより、対立していた蘇我氏と物部氏の全面戦争が勃発。

ちなみにこの時、厩戸皇子(うまやどのみこ・聖徳太子)は蘇我軍に参加しています。

蘇我馬子は物部守屋に勝利し、これにより物部氏が滅びます。

蘇我氏の権威はますます強大となり、政治の実権は馬子が握っていました。

592年、天皇は献上された猪の目を笄刀(こうがい・短刀)で刺し、

「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」とつぶやきます。

これを聞いた馬子は、天皇を警戒し、東漢駒(やまとのあやのこま)に暗殺させました。

奈良県外にある天皇陵(飛鳥時代)

下記の天皇の陵は奈良県外にあります。

【大阪府】

・第33代 推古(すいこ)天皇 ⇒史上初の女帝。聖徳太子が活躍したのはこの頃。

・第36代 孝徳(こうとく)天皇 ⇒史上初の元号を「大化(たいか)」とした。

【京都府】

・第38代 天智(てんぢ)天皇 ⇒中大兄皇子。中臣鎌足とともに乙巳の変を起こす。

【滋賀県】

・第39代 弘文(こうぶん)天皇 ⇒大友皇子。壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)に敗北。

第34代・舒明(じょめい)天皇

陵墓名称:押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)

遺跡名:段ノ塚古墳

所在地:桜井市忍坂

第34代天皇。飛鳥時代の629年~641年に在位。第30代・敏達天皇の皇子。

都を飛鳥岡本宮(あすかおかもとのみや・今の奈良県高市郡明日香村岡)。

先代の推古天皇は後継者を定めていなかったため、

蘇我蝦夷(そが の えみし・馬子の子)は田村皇子(たむらのおうじ・舒明天皇)を推薦し、

即位させます。しかし、この時代も政治の実権は蘇我氏が握っていました。

第35代・皇極(こうぎょく)天皇/第37代・斉明(さいめい)天皇

陵墓名称:越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)

遺跡名:車木ケンノウ古墳

所在地:高市郡高取町車木

第35代・第37代天皇。飛鳥時代の642年~645年、655年~661年に在位。舒明天皇の皇后で、

第33代・推古天皇以来の女帝。

敏達天皇の孫にあたる茅渟王(ちぬのおおきみ)の第一王女で、

母は吉備姫王(きびひめのおおきみ)。

第31代・用明天皇の孫と結婚。37歳になると第34代・舒明天皇の皇后に立てられ、

中大兄皇子(後の天智天皇)・間人皇女(はしひとのひめみこ・孝徳天皇の皇后)・

大海人皇子(後の天武天皇)を産みます。

夫・舒明天皇が崩御すると即位。

政治の実権はこれまで通り蘇我氏が握っており、

蝦夷が大臣、その子・入鹿(いるか)が主に国政を執りました。

643年、宮を飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや・今の奈良県高市郡明日香村岡)に遷都。

同じ年、入鹿が山背大兄王(やましろのおおえのおう・聖徳太子の子)を攻め、自害させます。

645年、中大兄皇子と中臣鎌足(藤原氏の祖)により「乙巳の変(いっしのへん)」が勃発。

中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿の首をはね、さらに父・蝦夷を自害に追い込みます。

翌日、皇極天皇は同母弟の軽皇子(かるのみこ・後の孝徳天皇)に皇位を譲ります。

これが日本史上初の譲位とされています。

孝徳天皇は即位すると史上初めて元号を立てます(大化)。

これを「大化の改新」と言います。

655年、孝徳天皇が崩御すると、飛鳥板蓋宮で斉明天皇として再び即位します。

これが史上初の重祚(ちょうそ・再即位)です。

政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執りました。

斉明天皇の時代、公共工事が盛んにおこなわれ、

この時に造られた渠(みぞ)は「狂心の渠」と呼ばれました。

また、蝦夷(えぞ・今の北海道)平定や朝鮮半島への軍事介入などの記録があります。

日本が唐・新羅の連合軍と戦って敗北する「白村江(はくそんこう・はくすきえ)の戦い」は

斉明天皇が崩御した後のことです。

牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)

2009年(平成21年)からの発掘調査により、牽牛子塚古墳が本当の斉明天皇稜であるという

説が有力とされています。

所在地:高市郡明日香村越

参考:明日香村をぶらり旅19 ~牽牛子塚古墳・越塚御門古墳~

第40代・天武(てんむ)天皇

陵墓名称:桧隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)

遺跡名:野口王墓古墳

所在地:高市郡明日香村野口

第40代天皇。飛鳥時代の673年~686年に在位。即位前の名は大海人皇子(おおあまのおうじ)。

父は第34代・舒明天皇、母は第35代・皇極天皇で、

同母兄には中大兄皇子(第38代・天智天皇)がいました。

皇后は兄・天智天皇の娘・鸕野讃良皇女(うののさららおうじょ・後の持統天皇)。

兄・天智天皇は、弟・大海人皇子を皇太子に立てていましたが、

次第に子の大友皇子(おおとものおうじ)に後を継いでほしいと思うようになります。

命を狙われる危険があった大海人皇子は、大友皇子を皇太子として推挙し、

自ら出家して妻・鸕野讃良とともに吉野(よしの・奈良県南部)へ下ります。

天智天皇が近江大津宮で崩御すると、第一皇子の大友皇子(弘文天皇)が跡を継ぎます。

しかし、大海人皇子を支持する声が多いことから、大海人皇子が挙兵を決断。

これが古代史上最大の内乱「壬申(じんしん)の乱」です。

結果、大友皇子を自殺に追い込み、大海人皇子が勝利し、天武天皇として即位しました。

都を近江大津宮から再び奈良盆地の飛鳥に戻し、

飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや・今の奈良県高市郡明日香村岡)を造営。

後に、天武の子と天智の子は吉野宮でともに協力すると誓います。

これを「吉野の盟約」と言います。

都が手狭になってくると、律令国家の建設を目指すために新たな宮の造設に力を入れます。

これが藤原京(ふじわらきょう・新益京(あらましのみやこ))です。

しかし志半ばで崩御し、妻・鸕野讃良に後事を託すことになります。

第41代・持統(じとう)天皇

陵墓名称:桧隈大内陵 ※天武天皇と合葬

遺跡名:野口王墓古墳

所在地:高市郡明日香村野口

第41代天皇。飛鳥時代の690年~697年に在位。即位前の名は鸕野讃良(うののさらら)。

父は第38代・天智天皇、母は蘇我遠智娘(そが の おちのいらつめ・蘇我入鹿のいとこの娘)。

夫・天武天皇を支え続け、夫の死後は藤原京造営というビッグプロジェクトを引継ぎます。

また天武天皇が生前に、鸕野讃良の病気平癒ために造営を始めた薬師寺も完成させ、

祈願寺としました。

実際に治世を遂行した初の女帝としても知られており、

第一回神宮式年遷宮(伊勢神宮)を行ったのも持統天皇です。

天武天皇が病で倒れると鸕野讃良は、実の子である草壁皇子(くさかべのおうじ)を皇太子に立て、

ともに政務を執るようになります。

しかし、草壁皇子より優秀だった大津皇子(草壁皇子とは異母弟)に皇位継承を求める声が

上がります。鸕野讃良はこれを見逃さず、「吉野の盟約」を交わした大津皇子に

謀反の疑いをかけ、自殺に追い込みました。

天武天皇が崩御すると、数年後に皇太子・草壁皇子も病で亡くなってしまいます。

愛する夫と子をほぼ同時に無くした鸕野讃良でしたが、

孫の珂瑠皇子(かるのみこ・後の文武天皇)に皇位継承を望みます。

しかし、珂瑠皇子はまだ7歳だったため、中継ぎとして自ら持統天皇として即位しました。

吉野へは頻繁に行幸しており、夫との思い出の地を訪れるというだけでなく、

天武天皇の権威を意識させることが目的だったという見方もあります。

珂瑠皇子が15歳になると譲位。

存命中の天皇が譲位したのは皇極天皇に次ぐ2度目で、

持統は初の太上天皇(上皇)になりました。

譲位後も、持統上皇は文武天皇とともに政務を執り、

大宝律令(たいほうりつりょう)の制定・施行を成し遂げます。

崩御後は、天皇としては初の火葬が行われ、天武天皇陵に合葬されました。

第42代・文武(もんむ)天皇

陵墓名称:桧隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)

遺跡名:栗原塚穴古墳

所在地:高市郡明日香村栗原

※2020年11月の発掘調査により、明日香村の中尾山古墳が本来の文武天皇陵である

 可能性が高いことがわかりました。

第42代天皇。飛鳥時代の697年~707年(慶雲4年)に在位。都は藤原京(今の橿原市高殿町周辺)。

天武天皇の第二皇子である草壁皇子の長男。先代・持統天皇の孫にあたります。

母は阿閇皇女(あへのひめみこ・天智天皇の皇女・持統天皇の異母妹で後の元明天皇)。

当時としては異例の14歳の若さで即位し、祖母・持統太上天皇のもとで政務を行っていました。

しかし持統が亡くなった4年後、25歳という若さで崩御します。

第43代・元明(げんめい)天皇

陵墓名称:奈保山東陵(なほやまのひがしのみささぎ)

所在地:奈良市奈良阪町

第43代天皇。飛鳥時代の707年(慶雲4年)から、奈良時代の715年(和銅8年)まで在位。

第42代・文武天皇、第44代・元正天皇の母で、持統天皇の異母妹にあたります。

また草壁皇子の正妃だったので、元明天皇から見た持統天皇は、義姉であり義母でもあります。

和同開珎(わどうかいほう・わどうかいちん)の鋳造や、

大宝律令の整備のため藤原不比等(ふじわらのふひと・鎌足の次男)を重用します。

さらに710年、藤原京から平城京(へいじょうきょう・今の奈良市佐紀町周辺)へ遷都。

この頃から不比等が最高権力者となり、藤原氏が台頭します。

715年、自身の老いを理由に譲位することになりますが、

孫の首皇子(おびとのおうじ・後の聖武天皇)はまだ若かったため、

娘の氷高皇女(ひだかのおうじょ・後の元正天皇)に皇位を譲ります。

これが日本史上唯一の女性天皇同士の皇位継承です。

721年、娘婿の長屋王(ながやおう)と藤原房前(ふじわらのふささき)に後事を託し、崩御。

第44代・元正(げんしょう)天皇

陵墓名称:奈保山西陵(なほやまのにしのみささぎ)

所在地:奈良市奈良阪町

第44代天皇。奈良時代の715年(霊亀元年)~724年(養老8年)に在位。日本史上5人目の女帝。

第40代・天武天皇の皇太子だった草壁皇子の長女で、母は先代の元明天皇。

独身で即位した初めての女性天皇です。720年(養老4年)に日本書紀が完成。

藤原不比等が病で亡くなると、いとこの長屋王が右大臣に任命され、事実上政務を任されます。

723年(養老7年)には、開墾者から三世代までの墾田私有を認めた法令「三世一身法」を制定。

724年(養老8年/神亀元年)に甥・首皇子(聖武天皇)に譲位します。

第45代・聖武(しょうむ)天皇

陵墓名称:佐保山南陵(さほやまのみなみのみささぎ)

遺跡名:法蓮北畑古墳

所在地:奈良市法蓮町

第45代天皇。奈良時代の724年(神亀元年)~749年(天平勝宝元年)に在位。

文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。

后は藤原不比等の娘・光明子。

当初、長屋王は皇族でない者の立后に反対していました。

皇后は夫である天皇が亡くなった後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるので、

この頃は皇族から立后するのが慣習だったためです。

しかし、729年(神亀6年)に不比等の子(光明子の異母兄)である藤原四兄弟が

仕組んだと言われている「長屋王の変」が起こり、長屋王は自害。

藤原氏の思惑通り、光明子は聖武天皇の后になります。

737年(天平9年)、奈良の都では疫病が流行し、

藤原四兄弟をはじめ、多くの政府高官が病死。これは「長屋王の呪い」とまで言われました。

これにより第43代・元明天皇時代から仕える橘諸兄(たちばな の もろえ)が主に実権を握ります。

740年(天平12年)、藤原広嗣(ひろつぐ)の乱が起こると、

天皇は伊勢国(今の三重県北中部)や美濃国(今の岐阜県南部)へ行幸すると、

そのまま平城京へ帰らずに恭仁京(くにきょう・今の京都府木津川市)へ遷都してしまいます。

その後、難波京(なにわきょう・今の大阪市)、紫香楽宮(しがらきのみや・今の滋賀県甲賀市)と

次々に遷都します。

741年(天平13年)に国分寺建立の詔を、

743年(天平15年)に東大寺盧舎那仏像(今の奈良の大仏)の建立の詔を出すと

745年(天平17年)に再び平城京へ遷都。

ちなみにこの頃、墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)を制定、

吉備真備(きび の まきび)が阿倍内親王(あべないしんのう・後の孝謙天皇)の教育係に就きます。

749年(天平勝宝元年)、娘の阿倍内親王に譲位すると、男性としては初の太上天皇になります。

752年(天平勝宝4年)、念願の東大寺大仏の開眼法要を成し遂げ、

754年(天平勝宝6年)には唐の僧・鑑真(がんじん)が来日。

その後、天武天皇の孫・道祖王(ふなどおう)を皇太子にする遺言を残し、病のため崩御します。

光明皇后陵

ちなみに聖武天皇陵の東方のすぐ近くに光明皇后陵があります。

所在地:奈良市法蓮町

第46代・孝謙(こうけん)天皇/第48代・称徳(しょうとく)天皇

陵墓名称:高野陵(たかののみささぎ)

遺跡名:佐紀高塚古墳

所在地:奈良市山陵町

第46代・第48代天皇。奈良時代の749年(天平勝宝元年)~758年(天平宝字2年)、

764年(天平宝字8年)~770年(神護景雲4年)に在位。 在位前の名称は阿倍内親王。

父は先代の聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后。

史上6人目の女帝であり、天武系最後の天皇でもあります。

なお称徳天皇以降は、江戸時代初期に即位した第109代・明正天皇(めいしょうてんのう)までの

850年以上、女帝が立てられることはありませんでした。

聖武天皇と光明皇后の間に生まれた男子は早世したため、

子は娘・阿倍内親王のみでした。これにより女性皇太子(史上唯一)が誕生。

阿倍内親王が即位すると、父・聖武上皇は天武天皇の孫・道祖王を皇太子にするように遺言。

しかし聖武上皇が崩御すると、孝謙天皇は舎人親王(とねりしんのう・天武天皇の皇子)の

子・大炊王(おおいおう・後の淳仁天皇)を新たな皇太子とします。

これには藤原仲麻呂(なかまろ)の意向が働いたと考えられており、仲麻呂の権勢に焦った

橘奈良麻呂(たちばな の ならまろ・橘諸兄の子)や大伴古麻呂(おおとも の こまろ)らは、

孝謙天皇を廃して新帝を擁立するクーデターを計画(橘奈良麻呂の乱)。

しかし仲麻呂が事前に察知し、粛清します。

758年(天平宝字2年)、孝謙天皇は母・光明皇太后の看病を理由に譲位。

大炊王は第47代・淳仁天皇として即位します。

孝謙上皇のブレーキ役だった光明皇太后が崩御すると、上皇と仲麻呂・淳仁天皇の関係は悪化。

孝謙上皇は病に伏せると、看病に当たった僧・道鏡(どうきょう)を寵愛するようになります。

上皇は平城京に戻らず、法華寺(ほっけじ)に住居を定め、仏門に入って別居。

さらに政務を自分が執ると宣言。

道鏡・吉備真備などの孝謙派が要職に就く一方で、

天皇から恵美押勝(えみ の おしかつ)の姓名を与えられた仲麻呂などは軍事的要職に就きます。

ついには仲麻呂が乱を起こします(恵美押勝の乱)。

結果、仲麻呂は殺害され、淳仁天皇は淡路(あわじ)に流刑となりました。

淳仁天皇の廃位によって孝謙上皇は事実上、皇位に復帰します(称徳天皇)。

日本史上唯一の出家のまま即位した天皇です。

称徳天皇は西大寺(さいだいじ)の拡張、神社の境内に神宮寺を建立する(神仏習合)など

仏教重視の政策を推し進めました。

また、些細なことで極刑が行われるなど刑罰が厳しくなり、

多くの冤罪を生んだと伝えられています。

称徳天皇は独身だったため後継者がいないまま時は過ぎていきます。

769年(神護景雲3年)、太宰府の神司が「道鏡が皇位に就くべし」と宇佐八幡宮の託宣を報じます。

これを確かめるため、和気清麻呂(わけ の きよまろ)が勅使として派遣されますが、

この託宣が虚偽であると報告。

道鏡を寵愛していた称徳天皇はこれに怒り、清麻呂は穢麻呂(きたなまろ)、

姉であり称徳天皇に仕えていた広虫(ひろむし)を狭虫(せまむし)と改名させて流罪に処しました。

この頃、後に光仁天皇として即位する白壁王(しらかべおう・天智天皇の孫)は、

称徳天皇を警戒し、酒に溺れた愚か者を演じて難を逃れていました。

称徳天皇が崩御すると、道鏡は表舞台から立ち去り、

藤原氏や吉備真備ら群臣が集まって後継者を評議。

結果、白壁王が光仁天皇として即位しました。

奈良県外にある天皇陵(奈良時代)

下記の天皇の陵は奈良県外にあります。

【兵庫県】

・第47代 淳仁(じゅんにん)天皇

第49代・光仁(こうにん)天皇

陵墓名称:田原東陵(たはらのひがしのみささぎ)

遺跡名:田原塚ノ本古墳

所在地:奈良市日笠町

第49代天皇。奈良時代の770年(宝亀元年)~781年(天応元年)に在位。

第38代・天智天皇の孫で、称徳天皇が崩御すると藤原氏や吉備真備の推薦により即位。

在位前は、藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)鎮圧に功績を挙げ、

称徳天皇の信任を得て大納言に昇進。

しかし、称徳天皇により周囲の親王・王が粛清されていくのを見て、

酒に溺れた暗愚を演じ続けました。

即位後、井上内親王(いのえないしんのう・聖武天皇の第一皇女)を皇后にし、

他戸親王(おさべしんのう)を皇太子に立てます。

しかし、井上内親王が呪詛による大逆を図ったという密告のため、

他戸親王とともに皇位を廃されます。

後に二人とも幽閉先で急死。これにより天武系の皇統が途絶えます。

皇太子には藤原式家(ふじわらしきけ)の祖・藤原百川(ももかわ)が推す

山部親王(やまべしんのう・後の桓武天皇)が立てられました。

光仁天皇は70歳を超えても政務に精励しますが、第一皇女・能登内親王(のとないしんのう)に

先立たれると病を理由に皇太子に譲位します。

第51代・平城(へいぜい)天皇

陵墓名称:楊梅陵(やまもものみささぎ)

遺跡名:市庭古墳

所在地:奈良市佐紀町

第51代天皇。平安時代の806年(延暦25年)~809年(大同4年)に在位。

奈良の平城京から、長岡京・平安京に遷都した第50代・桓武天皇の第一皇子。

同母弟に後の第52代・嵯峨(さが)天皇がいます。在位前の名は安殿親王(あてのしんのう)。

平城京を愛していたことから奈良帝(ならのみかど)とも呼ばれています。

皇太子時代から藤原式家・藤原種継(たねつぐ)の娘である薬子(くすこ)と不倫。

父・桓武天皇は薬子の追放と、薬子の夫・藤原縄主(ただぬし)を

皇太子の春宮坊(とうぐうぼう・家政)につけます。

これにより安殿親王と父・桓武天皇の関係は悪化します。

父が崩御すると皇位を継承し、天皇に即位。

しかし病気のため、わずか3年で弟の神野親王(かみのしんのう・嵯峨天皇)に譲位して

上皇になります。

この時、嵯峨天皇は平城上皇の子・高岳親王(たかおかしんのう)を皇太子に立てます。

同じ年の年末、平城上皇は旧都・平城京へ移り住みます。

その後、譲位に反対していた薬子の兄妹の強い要請を受け入れ、

810年(大同5年)、平安京にいる貴族たちに平城京への遷都の詔を出し政権の掌握を図りました。

桓武天皇の「平安京より遷都すべからず」の勅を破ります。

しかし嵯峨天皇に制され、薬子の官位も剥奪。

平城上皇は挙兵し、薬子とともに東国に入ろうとしますが、

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ・征夷大将軍)らに遮られて断念。

平城上皇は平城京に戻って仏門に入り、薬子は服毒自殺しました。

平城上皇の子・高岳親王は皇太子を廃され、

平城上皇の異母兄・大伴親王(おおともしんのう・後の淳和天皇)が立てられました。

これを「薬子の変」と言います。

反乱を起こした平城上皇ですが「太上天皇」の称号は維持され、

その後も平安京ではなく、愛する奈良の平城京に滞在したそうです。

第96代・後醍醐(ごだいご)天皇

陵墓名称:塔尾陵(とうのおのみささぎ)

所在地:吉野郡吉野町吉野山塔ノ尾(如意輪寺境内)

第96代天皇にして、南朝の初代天皇。

室町時代の1318年(文保2年)~1339年(延元4年/暦応2年)に在位。

第91代・後宇多天皇(ごうだてんのう)の第二皇子。

31歳の時に譲位を受けて即位。しかし、後醍醐天皇は兄・後二条(ごにじょう)天皇の遺児である

邦良親王(くによししんのう)が成人して皇位につくまでの中継ぎでした。

このため自分の子孫に皇位を継がせることを否定された後醍醐天皇は、

皇位継承計画を承認している鎌倉幕府に反感するようになります。

後醍醐天皇は何度か倒幕の計画を立てますが、いずれも密告により失敗。

最終的には、三種の神器を持って挙兵し、京都を脱出します(元弘の乱)。

幕府は後醍醐天皇を廃位し、量仁親王(かずひとしんのう・光厳天皇)を即位させ、

後醍醐天皇を捕虜すると隠岐島(おきのしま)へ流します。

後醍醐天皇は隠岐島から脱出すると再び挙兵。

これを追討するために幕府から派遣された足利高氏(あしかがたかうじ・尊氏)は

後醍醐天皇に味方し、六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻略。

その直後、東国で挙兵した新田義貞(にったよしさだ)は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させます。

後醍醐天皇は帰京すると、自らの退位を否定し、幕府・摂関を廃して「建武の新政」を開始します。

さらに父の遺言を無視し、自らの子孫により皇統を独占する意思を明確にしました。

1335年(建武2年)、鎮圧のため勅許を得ないまま東国に出向いた足利尊氏が、

乱の鎮圧に付き従った将士に、鎌倉で独自に恩賞を与えるなど新政から離反します。

後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じますが、義貞は敗れます。

その後、楠木正成(くすのきまさしげ)や北畠顕家(きたばたけあきいえ)らが足利軍を破ります。

尊氏は九州へ落ち延びますが、翌年に九州で態勢を立て直し、

光厳上皇の院宣を得たのちに再び京都を攻めます。

楠木正成は後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言しますが、後醍醐天皇はこれを退け、

義貞と正成に尊氏追討を命じます。

しかし、新田・楠木軍は湊川の戦いで敗北。正成は討死し、義貞は都へ逃れます。

足利軍が入京すると後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗しますが、

足利方の和睦の要請に応じて三種の神器を足利方へ渡し、

尊氏は光厳上皇の院政のもとで新天皇に擁立。

建武式目を制定して幕府を開設(室町幕府)します。

幽閉されていた後醍醐天皇は脱出し、尊氏に渡した神器は偽物であるとして、

吉野(今の奈良県南部)に朝廷を開きます。

これが、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代の始まりです。

後醍醐天皇は義良親王(後村上天皇)に譲位すると、京都に戻れないまま吉野で崩御しました。

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