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睦仁親王

明治天皇

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明治天皇

1873年(明治6年)内田九一撮影

第122代天皇

在位期間

1867年2月13日 - 1912年7月30日

慶応3年1月9日 - 明治45年/大正元年7月30日

即位礼 即位礼紫宸殿の儀

1868年10月12日

(慶応4年8月27日)

於 京都御所

大嘗祭 1871年12月28日

(明治4年11月17日)

於 東京府大嘗宮

元号 慶応: 1867年2月13日 - 1868年10月23日

明治: 1868年10月23日 - 1912年7月30日

時代 江戸時代

明治時代

摂政 二条斉敬

征夷大将軍 徳川慶喜

総裁 有栖川宮熾仁親王

輔相 三条実美・岩倉具視

左大臣 有栖川宮熾仁親王

右大臣 三条実美

太政大臣 三条実美

内閣総理大臣

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先代 孝明天皇

次代 大正天皇

誕生 1852年11月3日

(嘉永5年9月22日)

13時頃

 日本 山城国

平安京(現:京都)、中山忠能邸

崩御 1912年(明治45年)7月30日

午前0時43分(宝算59)

 日本 東京府東京市

明治宮殿

大喪儀 1912年(大正元年)9月13日

於 帝国陸軍青山練兵場

陵所 伏見桃山陵

追号 明治天皇

1912年(大正元年)8月27日追号勅定

諱 睦仁(むつひと)

万延元年9月28日命名

称号 祐宮(さちのみや)

印 永

元服 1868年2月8日

(慶応4年1月15日)

父親 孝明天皇

母親 中山慶子

皇后 昭憲皇太后(一条美子)

1869年2月9日

(明治元年12月28日)大婚

子女

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皇嗣 皇太子嘉仁親王

皇居 安政度内裏

青山御所

東京城・皇城・宮城

栄典 大勲位

親署

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束帯姿の明治天皇(明治5年〈1872年〉4月、内田九一撮影)

燕尾型正服姿の明治天皇(明治5年〈1872年〉4月、内田九一撮影)

1890年頃の明治天皇

明治天皇(めいじてんのう、1852年11月3日〈嘉永5年9月22日〉- 1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日[1])は、日本の第122代天皇(在位: 1867年2月13日〈慶応3年1月9日〉- 1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日)。諱は睦仁(むつひと)、御称号は祐宮(さちのみや、旧字体: 祐󠄀宮)。お印は永(えい)。

 

倒幕および攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれた。皇族以外の摂政を設置し[注釈 1]、かつ在位中に征夷大将軍がいた最後の天皇。複都制としながらも東京府に皇居を置いた。在位中、国力を伸長させた英明な天皇と謳われ「大帝」と称えられた[2]。皇后とともに和歌も多く残しており、その作品数は93,032首に及ぶ[3]。

生涯[編集]

生誕から即位まで[編集]

父・孝明天皇

 

母・中山慶子

孝明天皇の第二皇子。生母は権大納言・中山忠能の娘・中山慶子。嘉永5年9月22日(1852年11月3日)13時頃に京都石薬師の中山邸にて生誕。8日目の9月29日に父・孝明天皇から祐宮(さちのみや)という幼名を賜る。安政3年(1856年9月29日)に宮中に移るまで中山邸で育つ。

予定より2年遅れて万延元年閏3月16日(1860年5月6日)、深曽木の儀を行った。7月10日(8月26日)に儲君と定められ、准后・九条夙子の実子とされる。9月28日(11月10日)に親王宣下を受け「睦仁(むつひと)」の諱を賜る。

 

元治元年7月19日(1864年8月20日)、朝廷に嘆願書を提出するために発砲しつつ御所に近づいている長州藩兵を会津・桑名・薩摩連合軍が撃退した(禁門の変)。その翌日7月20日(8月21日)の夜、宮中に不審者が300人以上侵入するという騒動が起こり、パニックの中で睦仁親王が一時卒倒した。「長州藩に内通した」との嫌疑で外祖父の中山忠能に蟄居処分が下ることとなる。

 

慶応2年12月25日(1867年1月30日)、父の孝明天皇が崩御すると慶応3年1月9日(同2月13日)、満14歳で践祚した。元服前の践祚であったので、立太子礼を経ずに皇位継承をしている。父と同じく中沼了三を信頼し初の侍講にする。

践祚する睦仁親王

(聖徳記念絵画館壁画「践祚」)

慶応4年1月15日(1868年2月8日)、元服し、同年旧暦3月から閏4月は大阪へ行幸した[4]。同年8月21日(10月6日)からの一連の儀式を経て、8月27日(10月12日)、内裏(京都御所)にて即位の礼を執り行い即位を内外に宣明する(詳細は明治の即位の礼を参照。大嘗祭は明治4年11月17日〈1871年12月28日〉に東京で挙行)。12月28日、一条美子を皇后に冊立する。

幕末の動乱[編集]

践祚から間もなく、薩摩藩や一部の公卿を中心に討幕論が形成され、幕府と討幕派はそれぞれ朝廷への工作を強めていた。慶応3年10月14日(1867年11月9日)、征夷大将軍・徳川慶喜が討幕の大義名分を消滅させるために大政奉還を奏上した為、翌15日(11月10日)、明治天皇は上奏を勅許し、約680年続いた武家政権に終止符を打った。12月9日(1868年1月3日)、薩摩藩・広島藩・尾張藩・福井藩・土佐藩による政変が発生すると王政復古の大号令を発し、新政府樹立を宣言する。慶応4年(1868年)12月11日(1月5日)から始まった戊辰戦争においては、仁和寺宮嘉彰親王に錦旗と節刀を与えて征討大将軍に任命し、旧幕府勢力を鎮圧した。

新時代・明治[編集]

明治元年(1868年)武州六郷船渡図月岡芳年画

初めて撮影された明治天皇(隠し撮り)。明治4年11月21日(1872年1月1日)、明治天皇が横須賀造船所に行幸した際に、オーストリア人によって撮影された。この写真は明治政府の没収を逃れて海外に持ち出された[5]。

この間、慶応4年(明治元年)3月14日(1868年4月6日)には五箇条の御誓文を発布して新政府の基本方針を表明し、閏4月21日(6月11日)には政体書によって新しい政治制度を採用。また、明治と改元して「一世一元の制」を定めた(改元の詔書を発したのは、慶応4年9月8日〈1868年10月23日〉。しかし、改元は慶応4年1月1日〈1868年1月25日〉に遡って適用するとした)。

江戸開城から半年を経た明治元年10月13日(1868年11月26日)、明治天皇は初めて江戸に行幸し同日、江戸を東京に改称し、江戸城を東京城に改称(東京奠都)。一旦京都に還幸後、翌明治2年(1869年)に再び東京に移り、崩御まで東京に居住していた。

明治2年6月17日(1869年7月25日)には版籍奉還の上表を勅許した。当初、新政府内では公家や旧大名が中心メンバーを占めていたが、東京へ遷ったことも一つのきっかけとして、次第に三条実美、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らの発言権が強大になっていった。明治4年7月14日(1871年8月29日)には廃藩置県を断行し、中央集権体制を確立した。

他方、明治3年1月3日(1870年2月3日)には、「宣教使ヲ置クノ詔」(大教宣布の詔)[6] を発して、「神道の国教化(国家神道)」と「天皇の絶対化」を推し進めた。岩倉、大久保らは、天皇を近代国家の主体的君主と考えていた[2]。

征韓論を勅旨で収める[編集]

明治6年(1873年)に征韓論を巡って政府部内が紛糾した明治六年政変では、勅旨を出して西郷隆盛の朝鮮派遣を中止させてこれを収め、明治7年(1874年)から同8年(1875年)にかけて続いた自由民権運動では、立憲政体の詔(漸次立憲政体樹立の詔)を発して政体改革を進めるなど、天皇は政府内部の政治的対立を調停する役割を果たした。この自由民権運動への対応として、明治14年(1881年)には「国会開設の勅諭」を発して帝国議会(上院:貴族院、下院:衆議院)創設の時期を明示し運動の沈静化を図った。

また士族反乱が激化した際、下野した西郷らが西南戦争を起こして逆賊となり、新政府軍はこれを鎮定した。そしてこれが日本史上最後の内戦となっている。

近代国家の確立[編集]

宇多天皇による寛平御遺誡以降、天皇が外国人に直に面会することはなかったが[注釈 2]、明治天皇は外国要人と頻繁に会談している。まず明治2年(1869年)にイギリスの女王ヴィクトリアの第2王子アルフレートがイギリス王族として初めて訪日し会談。明治12年(1879年)にユリシーズ・グラントがアメリカ合衆国大統領経験者として初めて訪日し会談。明治14年(1881年)に、ハワイ国王カラカウアが外国元首としては初めて訪日し会談する。

明治2年(1869年)、直轄領であった蝦夷地を北海道として編入。明治12年(1879年)には琉球王国を廃し沖縄県として併合、奄美群島を正式に大隅国として編入している。

明治15年(1882年)、陸海軍を「天皇の軍隊」と規定するとともに、「忠節・礼儀・武勇・信義・質素」という軍人としての5つの基本徳目や、軍人の政治不関与を命じた軍人勅諭を発した[7]。

明治17年(1884年)以降は、間近に控えた議会創設に備えて立憲制に対応する諸制度を創設した。内閣制度、市町村制、府県制、郡制の制定など、官僚制支配体系の整備と並行して莫大な皇室財産の設定を行った。

宮城(1902年〈明治35年〉)

 

明治宮殿豊明殿

 

赤坂離宮(1911年〈明治40年〉)

明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法を公布した。この憲法は、日本史上初めて天皇の権限(天皇大権)を明記しており、当時アジアでは初となる立憲君主制国家確立の基礎となった。翌明治23年(1890年)10月30日には教育勅語(教育ニ関スル勅語)を発し、近代天皇制国家を支える臣民(国民)道徳の涵養に努めた。帝国議会開設当初は、超然主義を唱える藩閥政府と衆議院に依拠する政党勢力が鋭く対立衝突したが、明治天皇はしばしば詔勅を発し調停者的機能を発揮した。また、藩閥政府内の元勲間にあった政策や感情の上での対立においても、明治天皇は宥和に努めた。共和演説事件では文部大臣・尾崎行雄に辞表を提出させた。

世界の列強へ[編集]

明治天皇(中央)が水戸徳川邸を訪れた際に撮影された写真[8]。(1896年〈明治29年〉)

日露戦争凱旋観兵式において閲兵する明治天皇(中央)を撮影した写真[9]。(1906年〈明治39年〉)

ガーター勲章をコノート公爵アーサーより伝達される明治天皇(1906年〈明治39年〉)。この時コノート公は誤ってピンで自分の指を傷付け出血したが、何事もなかったように式を続け、天皇も気付かない振りをした。天皇は式が終わった後、コノート公の落ち着きを称えた[10]。

栃木県那須村演習統監時の写真(1909年〈明治42年〉11月、参謀本部陸地測量部写真班撮影)

「明治天皇最後の演習統監」

明治天皇-写真を嫌悪していた明治天皇にとって貴重な最晩年の写真(1912年〈明治45年〉)

日本が初めて直面した外国との近代戦争である日清戦争と日露戦争では、明治天皇は大本営で直接戦争指導に当たった。外交上は1894年(明治27年)の日英通商航海条約、1902年(明治35年)の日英同盟など大国との条約を締結し、列強の一員たるべく、軍事的・経済的な国力の増強を図った。

他方、日露戦争の『宣戦の詔勅』に続いて作成された詔勅草案は、「信教の自由」と「戦争の不幸」を強調していたが、大臣らの署名がないまま公布されなかった[注釈 3]。

日英軍事同盟の締結と日露戦争での働きにより、イギリスの首相アーサー・バルフォアの許可を得、1906年(明治39年)にガーター勲章を授与される[11]。また、日清戦争の勝利により獲得した台湾、日露戦争後は韓国併合による朝鮮領有や満州経営(現在の中国東北部)を進め、日本をイギリスやフランス、ドイツなど他の西洋列強のような植民帝国へと膨張させる政策を採用した。

明治44年(1911年)には、開国以来の懸案であったイギリスやアメリカなどの欧米各国との不平等条約の改正を完了させ、名実共に日本は列強の一員となった。

崩御[編集]

岡玄卿(明治天皇の侍医)

青山胤通(明治天皇の侍医・宮内省御用掛を務める)

大喪の礼の様子(1912年〈明治45年〉)

明治天皇の聖像(岐阜県岐阜市)

『台湾日日新報』が明治天皇の崩御を報道、明治四十五年七月三十日。

明治天皇が崩御した公式の日時は1912年(明治45年)7月30日午前0時43分であり、同月30日に刊行された号外でも「聖上陛下、本日午前零時四十三分崩御あらせらる。」とあり[1]、『明治天皇記』でも、「三十日、御病気終に癒えさせられず、午前零時四十三分心臓麻痺に因り崩御したまふ、宝算実に六十一歳なり」とある。持病の糖尿病が悪化して尿毒症を併発し、宝算61歳(満59歳)で崩御した。これに伴い、皇太子嘉仁親王が皇位継承し(大正天皇)、第123代天皇として践祚した。

明治天皇は明治45年(1912年)7月11日の東京帝国大学卒業式に出席したが、「気分は悪かった」という。侍医では対応できなくなり、20日青山胤通と三浦謹之助が診察し、尿毒症と診断した。20日宮内省は天皇が尿毒症で重態と発表した。28日に痙攣が始まり、初めてカンフル、食塩水の注射が始まった。「病や死などの『穢れ』を日常生活に持ち込まない」という宮中の慣習により、また、明治天皇の寝室に入れるのは基本的に皇后と御后女官(典侍)だけであり、仕事柄上、特別に侍医は入れるものの、限られた女官だけでは看病が行き届かないということで、明治天皇は自分の寝室である御内儀で休養することができなくなった。そして、明治天皇の居間であった常の御座所が臨時の病室となった[12]。看護婦も勲五等以上でなくてはいけないので、五位以上の女官が看護した[13]。

7月21日以後、平癒を祈願する市民が終日宮城前に集散した。東京市は天皇に騒音が届かないよう内濠線の電車を徐行し、三宅坂交差点では軌道にボロ布を敷いた。

宮内省は崩御日時を7月30日午前0時43分と公表したが、当時宮内書記官であった栗原広太によると、実際の崩御日時は前日の7月29日22時43分である。これは「登極令の規定上、皇太子嘉仁親王が新帝になる践祚の儀式を崩御当日に行わなければならないが、その日が終わるまで1時間程度しか残されていなかったため、様々に評議した上で、崩御時刻を2時間遅らせ、翌日午前0時43分と定めた」という[14]。

明治天皇の崩御に際してその側にいた皇族の梨本宮妃伊都子も、この間の様子を日記に克明に記している。伊都子の日記によれば、「(伊都子ら皇族は)二十八日に危篤の報を聞き、宮中に参内し待機した。二十九日午後十時半頃、奥(後宮)より、『一同御そばに参れ』と召され伊都子らが部屋に入ると、皇后、皇太子、同妃、各内親王が病床を囲み、侍医らが手当てをしていた。明治天皇は漸次、呼吸弱まり、のどに痰が罹ったらしく咳払いをしたが時計が10時半を打つ頃には天皇の声も途絶え、周囲の涙のむせぶ音だけとなった。2,3分すると、にわかに天皇が低い声で『オホンオホン』と呼び、皇后が『何にてあらせらるるやら。』と返事をしたが、そのまま音もなく眠るように亡くなった」という。

同年(大正元年)8月27日、追号を明治天皇(めいじてんのう)にすると、大正天皇による勅定がなされた。